在外勤務者リレーエッセイ
No.29「防災を通じたトルコと日本の絆」
長谷川庄司 JICA専門家としてトルコ首相府災害危機管理庁に勤務(2014年1月時点)
本文中記載のアンタルヤの国際会議にて
(スピーチ後に質疑応答中)
トルコは日本と同じく様々な自然災害が発生する国で、特に地震に対する準備が大きな課題となっています。近年では1999年のマルマラ地震(二つの大きな地震を併せた総称)や2011年のヴァン地震が記憶に新しいと思います。そのような大きな災害の減災、準備、緊急対応、復旧・復興まで全てを調整する機関として、2009年にトルコは首相府災害危機管理庁※1(以下、トルコ語機関名T.C. Basbakanlik Afet ve Acil Durum Yonetimi Baskanligiの略称であるAFADと記載)を新しく設置しました。AFAD本部は首都アンカラに設置され、500人強の職員がこれらの重要な業務に従事しています。私は、そのAFADに2013年3月末からJICA専門家として派遣され、災害リスク管理の準備や地域防災計画策定の支援を行っています。500人強の職員が働いていますが、現在のところ、私が唯一の外国人です。ですので、AFAD本部で私の名前を知らなくても、受付で「外国人に会いたい」と言えば、必ず私が呼び出されることになります。
イスタンブールで開催された防災関連の会議で発表中
AFADは災害に関する全てのサイクルを管理する常設機関ですので、日本には無い組織と言って良いでしょう。日本では東日本大震災に対応する組織として復興庁が設置されていますが、時限立法で設置された機関ですので、10年間という期限が設定されています。個人的には復興庁が10年の期限を過ぎたら、常設の災害管理機関に昇格することを期待しています(私も復興事業に参加させていただいた、インド洋大津波災害時(2004年12月)に設置されたアチェ・ニアス復興庁がインドネシア国家防災庁(BNPB)になったように)。
またトルコは、各県レベルでも防災関係の業務を統括する組織として、各県知事の下に知事直轄の県AFAD(全部で81県)も設置しており、防災体制としてはトップダウン方式の一枚岩の組織が出来上がっていると言って良いでしょう。
そんな中で働いている私ですが、日本の知見をできるだけ共有し、また私自身がこれまでJICSで従事してきたインド洋沖大津波や世界各国での防災事業で得た経験をトルコの方達に伝えることで、トルコの実情に合致した地域防災計画を仲間と一緒に作れるように努力していきたいと切に思っています。昨年11月下旬には、地中海沿岸の観光地でもあるアンタルヤにおいて人為災害に関する国際会議が開催され、私もAFADの一員として30分ほどのスピーチを行い、日本の過去と現在の災害対応方法に関して共有しました。
話は少し逸れますが、トルコは本当に親日的な国です。私がトルコに来てからも、イスタンブールと競ったオリンピック東京開催決定時には「おめでとう」と、またほぼ同時期にカッパドキアで日本人旅行者死傷事件が起こった翌日には、「本当にごめんなさい。残念だけど、トルコ人を嫌いにならないで」と、同僚が何人も朝一番で私の机に来て声をかけてくれました。
そんな親日国トルコにとって、日本と切っても切れない事件が1890年に和歌山県串本町沖で発生した「エルトゥールル号(遭難)事件※2」です。トルコの教科書にも記載されているようで、ほとんど全てのトルコ人が知っています(恥ずかしながら、私はトルコで仕事を始めるまで知りませんでした。)。
東日本大震災の時には、トルコから派遣された総勢33名の支援・救助隊が宮城県七ヶ浜町等で、各国の支援・救助隊の中で最長期間の活動を行い(日本での活動期間:3月20日〜4月8日)、被災者のために頑張ってくれました。その時の支援・救助隊33名をまとめた隊長とは、AFAD勤務により交流が生まれ、彼の助言も得ながら、トルコのために活動を続けています。
※1 トルコ共和国首相府災害危機管理庁(AFAD)のホームページは下記URLをクリックするとご覧いただけます。
※2 エルトゥールル号(遭難)事件・・・1890年、トルコのエルトゥールル号が和歌山県紀州沖で台風に遭遇し、沖合約40メートルで座礁、沈没。乗組員587名が死亡するという大惨事となったが、付近住民の献身的な救助により、乗組員69名が救出され、日本海軍の巡洋艦で丁重にトルコに送還された。また、日本国内でも犠牲者に対する義援金の募集が広く行われた。
なお詳細は下記URL(外務省ホームページ)でご覧いただけます
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkey/2010/contents.html#02
No.28「現場に行くことの大切さ」 (JICS REPORT 2013年4月号掲載)
大平 崇之 JICA南アフリカ事務所(2013年4月時点出向中)
2本並んだ発電所の冷却塔が、ソウェトのシンボル
南アフリカ・ヨハネスブルグの空港近くで飛行機から地上を見ると、プール付きの豪邸が並んでいるのが目につきます。空港から私が住むプレトリアへは、整備された高速道路を30分ほど走ると着き、道中にごみを見ることはほとんどありません。途中の大きなショッピングモールを眺めていると、ここがアフリカ大陸であることを忘れてしまいます。
この国に来る前の印象は「人種隔離政策」と「世界一危険な街」だったので面食らいましたが、道路にごみが落ちていない理由が、治安の悪さゆえ歩く人がいないためであることや、整備されたショッピングモールが、人種隔離政策の影響で市場や個人商店が発達せず、全国チェーンの店が地方にまで展開したためだと、しばらくして知りました。この国で仕事をするにあたり、一見しただけではわからない複雑さを持っていることを忘れてはいけません。
ある快晴の日、高速を走りダウンタウンを抜け向かった先は、同国で最も有名な旧黒人居留区ソウェトでした。すぐ脇を大音量のコンビバス(小型のバス)が通るなか、木の下で開いた青空ミーティングは、アフリカ大陸にいることを感じさせる、ごくわずかな瞬間です。ここが南アフリカだと思い出させるのは、そのミーティングで白人と黒人が将来の協力内容について話している点と、多くの黒人が暮らす小屋(バラック)が眼下に広がる点だけです。
カラフルに塗られたシンボルタワー(写真を参照)やサッカーW杯の決勝が開かれたスタジアムなどで、観光地のイメージも生まれつつあるソウェトですが、電気や水道すらない家も未だ数多く見受けられます。こういった光景は、地方に行くと日常で、ここはまだまだ多くの支援を必要としています。
この仕事をするにあたり、マクロ経済指標は重要です。ただ、この国にいると現状を知るには現場に行くしかない、と思い直させてくれます。私にとって、上空から見えるプール付きの豪邸と、対照的な旧黒人居住区ソウェトの景色は、それを思い出させてくれる景色なのです。
No.27「変わりゆくモンゴルのただ中で」 (JICS REPORT 2013年1月号掲載)
宮下 弘道 在モンゴル日本国大使館書記官(2013年1月時点出向中)
ゲルのある草原。
古くからのモンゴルを感じさせる風景
発展著しいウランバートルの夜景
著者近影
近年の目覚ましい経済発展のなか、首都ウランバートルの近代的な都市型の生活スタイルの一方で、毎年7月のナーダム祭りなどに代表されるような、昔からの伝統が脈々と受け継がれている遊牧民の生活スタイル。車でウランバートルを1時間も離れれば、この大きく異なる2つの生活スタイルを見比べられることは、多くの日本人旅行者にとって大きな魅力かもしれません。また、テレビや冷蔵庫、携帯電話といった電気製品を所有する地方の遊牧民の家族も増え、民族衣装に身を包んで馬にまたがりつつ携帯電話をかける、これもまた伝統と近代が入り交じり、急速に変わりつつある今のモンゴルの姿です。
最近では、石炭や金・銅・レアメタル・レアアースなどの鉱物資源の開発とともに経済発展が加速し、一人当たりのGDPが2011年末には3,070ドルに達し、2013年には5,000ドル、2016年には1万ドルを超えるとの予測もあり、国民全体が将来の生活向上に希望を抱けるようになりました。今では、低中所得国となり中進国の仲間入りを果たしましたが、今後、最も短い期間で先進国に成長し得る国のひとつであるとの見方もあるほどです。他方で、その陰には、経済成長に取り残され、発展の恩恵を十分に得られていない社会的弱者や貧困層がまだまだ多数存在するのも、モンゴルの姿ということになります。
こうした日に日に変わる躍動感を感じつつ、モンゴルへの経済協力(ODA)経済開発の現場に居合わせられる、幸せな在モンゴル日本大使館での生活も2年が過ぎました。このような機会を与えていただいたことに感謝しつつ過ごす毎日です。
No.26「若きリーダー、メレス・ザナウィ前首相を追悼する」 (JICS REPORT 2012年10月号掲載)
竹田 竜司 業務第一部 施設第二課
現地のJICS事務所ビルにあるザナウィ前首相追悼の献花台。メッセージは首相亡き後の国民の団結を示す内容
空港での首相追悼式典
2012年8月20日、メンギスツ共産独裁政権の打倒から約20年間、実質的にエチオピアの政権トップとして国政を指揮してきたメレス・ザナウィ首相が療養先のベルギーで享年57歳という若さで亡くなりました。エチオピアの国営テレビをはじめ、海外メディアも一斉に、サハラ以南で2番目に多い人口を抱え、慢性的な政情不安を抱える「アフリカの角」において政治、経済面などに大きな影響力を持ち、アフリカ連合(AU)の本部もあるこの国の、若きトップの突然の逝去を大々的に報道しました。
9月2日には首都アディスアベバで国を挙げての葬儀が執り行われ、首相の亡骸はエチオピアで最も美しいといわれる三位一体教会Trinity Churchに埋葬されました。9月中旬は、例年であれば正月(エチオピア暦)を迎え、お祝いムードで沸き立つエチオピアも今年はかなり控えめで、亡き首相のポスターが街頭の至るところに掲げられ、官公庁はじめ一般のホテルやレストランでも写真を掲げ、巷には追悼と悲哀のメッセージが溢れていました。
20年の長きにわたって国政を指揮し、海外投資を積極的に取り組むなどしてここ10年でエチオピアに大きな経済発展をもたらした首相の死を悼む国民一人ひとりの姿からは、その理念を引き継ぎ、国の発展のため一致団結しようという純粋で前向きな姿勢が伺えました。エチオピアのみならず各国が悼むアフリカの雄の若きリーダーの突然の逝去に、その冥福をお祈りするばかりです。
No.25「フットサルチーム「SAMURAI」の軌跡(奇跡)」 (JICS REPORT 2012年7月号掲載)
堀川 徹 業務第一部 施設第二課
4チーム対抗国際親善試合
日ごろ運動不足のグアテマラ駐在のサムライたちが、「フットサルのリーグ戦にでも参加してみよう」と軽いノリで集まったチーム「SAMURAI」。2010年7月、ユニフォームもない、ただの運動靴姿という出立ちで、さっそうとデビューしたまでは良かったが、初歩的な知識もないままの前途多難なデビュー戦であった。ルールだけは覚えて臨んだ第2戦も、前後半50分で25対0という惨敗を喫し、平均年齢37歳のサムライたちの心は折れかけた。
その後も10点差以上の負けが続いたが、「目指せ一勝!」を合言葉に、週1回の朝練も開始し、試合は一度も休まなかった。DVDや本で戦術などを研究する一方、国際試合の観戦もした。「絶対に走り負けない」と戦い続けるうちに失点が減り、1試合当たりの得失点差が−5点程度まで上向いた。
そして、2012年3月1日、ついにその日は来た。この試合(最下位争い)が最大の勝機だと知っていたサムライたちは、前半を何とか0対0で折り返した。後半も動き回った「SAMURAI」は、相手チームの猛攻を1点で凌ぎ切り、セットプレーからの2得点で、ついに1年半越しの初勝利を手繰り寄せた。
サムライたちの活動はフットサルにとどまらず、フリーマーケットなどに参加し、習字や折り紙を披露したり、カレーや牛丼を販売するなど日本文化の発信活動も行っている。先日はフットサルの親善試合を企画し、グアテマラ・韓国・台湾・日本チームが参加した。各チームのメンバーは大使館・国際協力機関の職員などで構成され、アジア各チームの大使がプライベートで訪れ、日本に至っては大使自身も試合に出場。友好的なイベントとなった。
No.24「穏やかで優しく、時に激しいマリの人々」 (JICS REPORT 2012年4月号掲載)
橋本 清香 業務第一部 施設第三課
ドライバーと一緒に
西アフリカに位置するマリ共和国の首都バマコの昼下がりは、ロバが闊歩する中、トラックの下で昼寝をする人々がごろごろしています。気温が高く、保存が利かないため、買った野菜や果物は新鮮なうちに食べる、という毎日です。マリは、「庶民の味」ほど美味しく、自然な風味に慣れると、日本の加工食品が食べられなくなるほど、食生活については極上の観があります。
マリは、穏やかで優しい人が多いのですが、時間などの約束はあてにならないことも多く、日本人の想像を絶するところがあります。例えば、電気工事。資金問題が解決したと思いきや、「ケーブルがありません」。ケーブルが届くと「規格違いでした。発注し直します」。やっと規格どおりのケーブルが届くと「ケーブル高架の停電は土曜日にやるものだから週末まで待ってください」。土曜日になると「停電許可が取れていませんでした。月曜にやります」。月曜になると「前払い使用料が支払われていないから工事できません」。前払い使用料金について1週間かけ話がまとまると「ケーブルが配電盤まで延びていないので、メーターを設置できません」。そして「メーターの在庫がありません」といった具合です。いつになったら電気が来るのか、待つしかないということもあります。
マリで暮らしていると、お金持ちが収入を自分の懐に入れてしまい、使用人に賃金を支払わない、という事態によく遭遇します。そんな状況に嫌気が差して、「外国で働きたい」と考える人も大勢いるようですが、ビザ取得の問題など現実は厳しいようです。したがって、日本人とは比較にならないほど、人々のお金に対する渇望が凄まじく、友情だと思っていたら金銭的な見返りを求められてがっかりさせられ、さらにその要求がエスカレートしてうんざりということもあります。また、お金の受け取り方も悲しいほどに激しくて、この土地を経済的に潤すのは、途方もなく大変だという気がしています。
とはいえ、エネルギーあふれる人々に囲まれて、私はマリへ来て、より人間の本質を見つめられるようになった気がします。日本に帰ったら、マリの人々の素朴な優しさが懐かしくて、胸にぽっかり穴が空くことになるだろうな、と感じる毎日です。
No.23「4泊5日のプレスツアーと草の根無償」 (JICS REPORT 2012年1月号掲載)
北村 義典 在エチオピア日本国大使館書記官(2012年1月時点出向中)
引渡し式で橋の周りに集まった、何千人もの住民
今回、ご紹介するのは、支援の手が届かないと思われる地域でも、日本政府は着実に支援を実施しているという事例です。
2011年11月中旬、大使や当地の大手メディアの記者と共に、4泊5日のプレスツアーに出かけました。行き先は、南部諸民族州の南オモ県。ケニア・南スーダンと国境を接し、中央政府からの支援もあまり届かない秘境です。今回の目的は、メディアの方々に日本の草の根無償案件を紹介し、その良さを理解してもらうことです。
首都アディスアベバ出発から3日目にようやく今回のメインのサイトに到着。この案件は、南オモ県の県都ジンカから40km山奥に入ったウバマールという村の近くを流れるサラ川に橋を架けるものです。今までサラ川には橋はなく、住民や家畜は幅10mほどの川を歩いて渡るほかありませんでした。雨季には増水し、毎年、何人・何頭もの命が流されていたとのことです。ここはエチオピア東部の干ばつ地域とは違い、とても雨の多い地域です。
サラ川到着の間近になると、道を行く人々の数がだんだん増えてきました。新設された橋付近でわれわれを待ち受けていたのは、総勢1万人にも上る住民でした。今まで、さまざまな引渡し式に出席してきましたが、これほどの人々が集まったのは初めての経験です。いかに住民が橋の建設に感謝しているかがわかります。ウバマール村での式典の後、近隣の村々を訪問し、過去の草の根案件(学校や農業研修所の建設、道路補修など)を視察しましたが、どの村でも大歓迎を受けました。
プレスツアーの最終日前夜、大使とメディアの意見交換会が行われ、メディアの次の言葉がとても印象的でした。「これまで、日本国大使館から頻繁に草の根案件の引渡し式や署名式のプレスリリースを受け取ってきたが、案件の金額が小さいので内容をよく読んでいなかった。今回のツアーで、小額であっても草の根無償は効果の高いプロジェクトであることがわかり、感動した。これからは、プレスリリースをよく読むようにしたい」
アディスアベバに帰郷後、連日のようにテレビ・新聞でプレスツアーの報道がなされたのは、言うまでもありません。
※ 草の根無償:正式には、草の根・人間の安全保障無償資金協力。1件あたりの供与額は一般的に1,000万円が上限。
No.22「オルロのカーニバルでレッツ・ダンス!」 (JICS REPORT 2011年10月号掲載)
中村 陽子 在ボリビア日本国大使館(2011年10月時点出向中)
ティンクを踊りながら練り歩く女性たち
ボリビア・オルロのカーニバルは南米3大カーニバルの一つで、ユネスコの無形文化遺産代表一覧表に登録され、わが国もユネスコ無形文化遺産保護日本信託基金を通じて支援を行っています。カーニバルは毎年2 〜 3月頃に開かれ、開催期間中はボリビア各地はもとより、世界中から観光客が訪れます。
カーニバルの踊りはボリビア先住民の伝統を色濃く残しているものが多く、さまざまな種類があります。衣装は高価なものもあり、カーニバルで着るために1年間働いているボリビア人もいるとか。カーニバルは土曜日と日曜日の2日間にわたって行われ、1日目はソカボンの聖母に捧げるために踊り、2日目は自らのために踊ります。踊りはバスのターミナル近くから始まり、オルロ市のメーン通りを抜け、市庁舎および県庁舎のある広場で大観衆の中を進み、テレビの生放送が行われているソカボン広場にたどり着き、坂道を登ってソカボン教会まで5〜6時間かけて踊り続けます(もちろん休憩もありますが)。ソカボンの聖母に願掛けして、3年間踊ると願いが叶うといわれています。
私は2009年のカーニバルから、ティンクという踊りを踊っています。ティンクとは、ボリビアの最貧困地域の一つであるポトシ県北部の踊りです。男性は皮のヘルメットのような帽子を持ち、女性は羽の付いた帽子をかぶって踊ります。オルロのほかにも首都ラパスで行われるグラン・ポデールや大学が主催するウニベルシタリア、コチャバンバ市でのコルソ・デ・コルソなどのお祭りに参加しました。日本の経済協力やボリビアに貢献している日系人のおかげで日本びいきのボリビア人が多いため、踊っていると「一緒に写真を撮って」とよく写真を撮られます。3年連続してオルロのカーニバルで踊りましたが、願いは未だに叶いません。
No.21「パキスタンとインド、クリケットで因縁の対決!」 (JICS REPORT 2011年8月号掲載)
名木田 朋幸 JICAパキスタン事務所(2011年8月時点出向中)
クリケット・ワールドカップは、ICC(国際クリケット評議会)が主催
2011年3月30日午後。多くのパキスタン人の熱い眼差しが、テレビモニターに注がれていました。視線の先には、インドのワンケード・スタジアムで、パキスタンのクリケット代表チームの選手たちが躍動する姿がありました。
2011年は、4年に一度行われるクリケット・ワールドカップの開催年にあたります。10回目の今大会は、栄冠を目指して全14チームが、2月中旬の予選ラウンドから長きにわたる戦いを繰り広げてきました。
クリケットは、英国と、かつてその支配が及んだ国々を中心に人気を博しているスポーツで、パキスタンでは国民的スポーツともいうべき存在です。そのワールドカップで、3大会ぶりに準決勝まで駒を進め、準決勝の対戦相手は色々な意味でライバル視されるインド。これで盛り上がるなというのが無理な話です。
今回のインド戦にあたり、パキスタンのギラニ首相は観戦のためにインドを訪問。また、パキスタン政府は急遽、試合当日の午後を休日とすることを発表しました。パキスタンにとって、これが単なるスポーツの試合ではなかったことを物語ります。私が勤めている事務所の現地職員の多くも、試合当日は朝から「心ここにあらず」状態で、午後は休暇を取得して、そそくさと帰宅の途につきました。
さて、肝心の結果はというと、260対231でインドの勝利。インドは、決勝でもスリランカを破り、7大会ぶり2度目の優勝を果たしました。一方、敗れたパキスタンでは、残念ながら試合の翌日が勝利を祝う休日になることもなく、何事もなかったかのように普段と同じ生活に戻りました……。
次回のワールドカップは2015年。開催地は、オーストラリアとニュージーランドです。果たして、どのようなドラマが生まれるのでしょうか?